一時期流行ったディープラーニング。アルファ碁が人間を破ったことで、ディープラーニングの可能性に一気に注目が集まりました。
AIをテーマにした映画も増えたように思います。特に、自我を持つAIをテーマにした映画では、AIが人間と敵対するようなものが多いように感じます。これは、AIに対する人間の恐怖の現れなのかもしれませんね。
最近観た映画だとエクス・マキナとかはとてもおもしろかったです。
さて、AIは現在も進化し続けているわけですが、このままいくと、AI、特に注目されているディープラーニングは脳を再現することはできるのでしょうか?
実は、ワタシ的にはちょっとむずかしいかなーって思っています。
その理由について少し書いてみました。
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1)真の意味での自己学習ではない
そもそも人間の脳は、常に学習をしています。今のディープラーニングの手法だと、それができません。よく自己学習ができると言われたりしていますが、それはあくまで人間が与えた学習方法をしているだけで、自ら学ぶことはできないのです。
逆に言えば、その個人が学習した方法を真似ることで、特定の個人の人格なら再現ができるかもしれません。
わかりやすい例で言えば、アルファ碁が人間に逆らって、将棋の棋譜を勝手に学び始めたら、それは自己学習と言えるでしょう。しかし、今のままではそれは難しいと言わざるを得ません。
2)人間の脳は意外と高性能
ディープラーニングによって機械学習された囲碁や将棋のAIに人間が負けていますので、コンピュータの方が計算が早いと思っている方も多いと思います。
でもこれは当然といえば当然です。現在のAIは、計算力を高めるために、複数の要因を入れるのをやめて、単体で考えさせています。今は単機能では人間はどうやってもコンピュータに勝てないところまで来たことは間違いありません。でも、それは今に始まったことではなく、結構前からそうだったりします。電卓だってそうですよね。人間よりも計算が早いです。
それが、最近では以前よりも複雑な問題を解くことができるようになったという話です。アルファ碁は、ディープラーニングが優秀な技術であることの証明ではありますが、人間の脳が処理している情報量を処理するのはまだまだ難しいでしょう。
3)ディープラーニングと人間の脳の似ている点
ディープラーニングは、人間の脳のニューロンの構造を模倣して作られています。そのため、答えの出し方については、ディープラーニングと人間の脳は似ていると言えます。
具体的に言えば、1つの入力に対して、最適解の答えを出すときに、毎回考えているわけではないということです。
例えば、女性の写真を見せたとき、人間の脳のニューロンは特定の部分が反応し、それを女性として認識します。ディープラーニングもそれに似ていて、毎回計算しているわけではなく、写真という入力に対して、それを女性と判断します。そのときに、すべての処理をしているわけではありません。
4)脳とディープラーニングの違い
わかりやすい事例として、運動野があります。
人間は言葉を話す脳と、運動をする脳が異なっています。このことから考えると、人間は1つの物事を判断する際に、個別に分けられた脳のネットワークを使っているということが想像できます。
つまり、複数のディープラーニングがあり、それを使い分けているという感じです。今、そのようなアプローチのディープラーニングは聴いたことがないので、これは人間の脳と今のAIのアプローチが大きく異なる点です。
5)必要なのは電話交換手のようなニューロン
つまり、運動をするときに反応するニューロンに電気信号を送る機能が人間の脳には存在します。いわゆる電話交換手みたいなものです。つまり、電気信号を適切なネットワークに伝える役割をする機能が必要ということです。
走ろうとしたときに、「こんにちは」と言わないのと一緒ですね。
これが、今のディープラーニングやAIのアプローチに足りない点だと思っています。これができない限り、AIはただ答えを出すだけの機械でしかなく、人間のような自我を生み出すことは難しいと思います。
このあたりの研究が今後のAI分野の最先端になると思います。そして、それが実現したとき、はじめてコンピュータに自我が生まれる可能性が出てくると思います。脳にはまだ未知の領域があります。そういう意味で、電話交換手的な機能を再現しただけでは人間の脳を再現することは難しいかもしれません。
ただ、少なくとも今よりは人間に近づけるのではないかとワタシ的には思っています。
DL系追記メモ
赤外線データから異常検知できないか? 人の導線が重要になりそう。トポロジーとDL、人工知能の組み合わせは面白いかも。
なぜ、人は分類するのか? 人も間違う。たたみ込み、近傍だから、たたみ込みが有効。距離感が重要なのではないか。重要というのは近いから良いというわけではなく、距離自体に意味があるということ。