ABEMA PrimeのYoutube動画「【国葬検証】ひろゆき&有識者が激論!誰をどの基準で弔うべきか」を見ました。
安倍首相の国葬については様々な意見が出ています。
そのため今回の異例中の異例である国葬について「故安倍晋三国葬儀に関する意見聴取結果と論点の整理(PDF)」という報告書が作成されたとも言えます。
ABEMA Primeでは上記報告書でヒアリングを受けた2人の方を交えて、改めて国葬について考える内容になっています。
その中で日本学術機構代表理事 岩田温さんが主張している
選挙期間中に元首相が暗殺されたことに対する言論封殺への抗議であり、テロに屈さないことを示すという点で意義がある
というのは、私的にとても共感できる話だと感じました。
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日本は法治国家である前に民主国家である
国葬反対の理由としてよく挙げられる点に憲法違反であるという指摘があります。
現状では国葬について法律で定められておらず、国葬をしてはいけないというわけではありません。逆に国葬にすべきという法律もありません。
日本は法治国家ですから、法律に従って物事を進めましょうというのはわかる話です。
また日本は民主主義を原則とする民主国家です。その主権は国民にあり、国民によって選ばれた政治家がテロによって暗殺されたことは、国民の主権を侵害しているとも言えます。
ここで法治国家と民主国家のどちらが重要なのか?という視点で考えてみると、やはり民主国家が優先されるのではないでしょうか。
つまり、民主国家において法律が国民の生活を脅かすようなことがあってはならないと私的には考えます。
選挙は民主国家における象徴的なシステム
番組内でもありましたが選挙は民主国家における象徴的なシステムの1つです。
その選挙期間中に選挙で選ばれた人物がテロによって暗殺されたのですから、これは民主国家に対する暴力による挑戦と言っても過言ではありません。
安倍元首相の政策の是非とか、功績の是非とか、言っている内容の是非に関係はありません。
ですから多くの国民はこのテロに対して毅然とした態度を取らなければならないと私的には思います。
テロを許すということは民主国家を辞めるということでもあるからです。
もちろん民主国家自体の是非はあるでしょう。民主国家に対して反対であれば、国葬への反対というのもうなずけます。
テロを許せば表現の自由を奪うことになる
また今回のテロを容認するということは表現の自由を奪うことでもあります。
アベガーという言葉もありますが、安倍元首相に対して反対の立場の方たちにとっても、実はテロの容認は自身の言論を封殺することにほかなりません。
つまり表現の自由に対するテロについても、はっきりと国として、国民として態度を決める必要があると思います。私的には言論封殺された社会は嫌なので何かしらアクションがあった方が良いと考えます。
逆に表現の自由を奪いたい、言論封殺された社会が良いというのであれば、国葬に反対するのもうなずけます。
国葬である意味
以上の2点から、やはり安倍元首相については国葬をして良かったと思いました。
政党が主導権を握る葬儀であった場合、それは政党としての意思表示であり、国や国民とは関係ありません。つまり、国や国民がテロを容認していると思われても仕方が無いということなります。
それは民主国家や表現の自由に反対しているとも言えます。
意思表示とは明示的に何かを実行することで伝わるものであり、心の中で思っていただけでは意味がありませんし、意思表示をしなければテロを容認しているのと一緒です。
お金の問題
国葬には12.4億円かかりました。また費用は国費で賄われました。
- この費用が適正か?
- 政党や家族も出すべきではないか?
と言った意見があります。
費用については確かに12億というと非常に大きな金額ではあります。国家全体としては非常に少ない金額ですし、マスコミが好きな言葉で言えば国民1人あたり12円です。
たった12円で民主国家と表現の自由を尊重するという意思表示ができたと考えば、高くないようにも思います。
また日本として世界にテロに屈さない姿勢を見せたことは12億では測れないほど大きな効果があったと言えるでしょう。もし、テロに対して少しでも弱さを見せれば国際社会において日本の立場は悪くなっていたと言っても過言ではありません。
また政党や家族が費用を一部出すというのは、前述した民主国家や表現の自由の観点から考えると筋違いになってしまいます。ですので国費で行うのが妥当です。
手続きの問題
今回一番の問題は手続きについてでしょう。あれよあれよと言う間に国葬が決まってしまいました。
これは手続きに自体が存在していなかったことから、政府の判断で一気に進めてしまいました。
この点については今後議論されるべき内容です。
スピード感も重要であるため、国会で議論を重ねてというのはシステムとして適正ではないようにも思います。
国葬にするべき人の判断
今回はテロに屈さず、民主国家と表現の自由を守るためということで国葬の意義があったと思います。
しかし、今後はどのような基準で国葬をすべきかどうかを判断すれば良いかは明確になっていません。
私的にはやはりテロに対しての毅然とした態度というのが国葬是非の1つの指針のようにも思います。
つまり功績や偉業ではなく、国家の根幹を揺るがす事態かどうかが判断基準の1つというわけです。
国葬の是非が言えること自体に国葬の意義はあった
いろいろと書いてきましたが、これは私一個人の考えに過ぎません。
他にも様々な意見があるでしょう。ただ1つだけ言えることがあります。
こんな風に国葬の是非が言えること自体に国葬の意義はあったということです。
これは日本において表現の自由が守れられていると言えます。もしテロに屈する国家であれば、アンチの意見など言える場は存在しません。
そんなことを思いました。
余談ではありますが、以前に安倍元首相が演説の際に警察が怪しい人を取り押さえ表現の自由が〜という議論がありましたが、暗殺事件が起きたことを考えるとその対応は正しかったと言えますね。