社会の秩序が乱されるのは、
アラン 幸福論 (岩波文庫)(Amazon)
いつも退屈さからだ。
また退屈さからくるばかげた行為からである。
アラン
アランは戦争も退屈さが原因で起きていると説いています。
退屈さの定義は難しいですが、ワタシ的には、することがなく、ただ無為に時間を過ごさなければいけない状態なのかなって。
ポイントは「過ごさなければいけない」という点で、自分の意思ではなく、外的要因によって、何もできない、させてもらえない状態と考えています。
だからこそ、それに反発するように、何かを起こしてしまうのかなって。
また別の観点では、人の欲望が関係しているようにも思います。
正確には刺激を求める習性と言った方が良いかもしれません。
刺激が少ないとイライラした状態になって、新たな刺激を求めるというわけです。
ワタシは刺激が欲望のトリガーになっているんじゃないかなあって。
その刺激の元は脳内物質なわけですが、それはここでは別の話なので割愛。
つまり、何が言いたいかというと、刺激を求め続ける人間の本能があるかぎり、争いは絶えないですし、今後も戦争が起きてしまうということ。
それを防ぐ方法として、ワタシは人間自身がそういう習性のある生物であることを、みんなが理解することが大切なんじゃないかなって思っています。
自身を理解することは、少しだけ自身を客観的に見ることに繋がります。
客観的に自分を見ることができるようになると、刺激を求めたせいで暴走した時に、客観的に見ている自分が気づき、暴走を停めやすいです。
また、感情の高揚が収まり、落ち着いた時に、冷静に自身が暴走していたことに気づけると思います。
そうすれば、暴走したことについて謝罪できるようになるんじゃないかなって。
特にこの傾向は活動家と言われる人に多いように思います。
よるあるので、言い方や行動が悪かっただけなのに、主張を否定されたと勘違いして、さらに過激になっていくという非常に悪いスパイラルに陥りがちです。
一言謝るだけで、状況は大きく変化すると思いますが、謝ることが負けだと思っているフシもあります。
でも、冷静になって考えてみてください。
活動の目的は、目の前の議論に勝ち主張を押し通すことでも、自身が権力を得ることでも、自分の存在を認めさせることでも、誰かを貶めることでもありません。
苦しんでいる人を助けることが活動の目的です。
自身が客観的に見えていないので、本来の目的を見失っていることが多く、いわゆる目的と手段が逆になってしまっています。
結局活動をすることで脳が刺激され、その刺激がもっと欲しくなって、止められない状態でもあるのかなって。
もしかすると、退屈さとどう付き合っていくのかの答えが、争いや戦争を防ぐ唯一の方法なのかもしれません。